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23.藤枝宿 人馬継立
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宿場
東海道五十三次
23.
藤枝宿 人馬継立
歌川広重
天保3〜4年(1832〜33)
藤枝宿の現在の風景

写真・文  冬冶様(掛川市)
撮影      2001/1/21

上伝馬町の問屋場の人馬継立の様子をえがいている。 隣の宿場からきた人馬がここで交替し、荷を積み替えて次の宿場へ運ぶ。高い床の上には問屋の上役が、 いろいろと監督,指図をしている。

      文・ 冬冶様(掛川市)

目次
問屋場の跡は今は上伝馬町交番になっており、昔の建物はなにも 残っていない。




藤枝宿の見どころ


藤枝宿の現在の風景

写真・文  冬冶(掛川市)様
2001/1/21撮影


      藤枝宿の現在の風景

写真・文  冬冶(掛川市)様
2001/1/21撮影


広重の行書版では、宿場の西を流れる瀬戸川の歩渡しをえがいている。 自分で歩いて渡っている人も、人夫をやとって渡ってゆく旅人も見られる。向こうの家並みは藤枝宿、従って,嶋田宿 方向から渡ってゆく姿である。  この画像は現在、瀬戸川にかかる瀬戸川橋で、浮世絵に見るように、 この付近を渡っていったのだろう。向こうが同じく藤枝宿である。
      隷書版では、夕立に降られて松並木の下を行く旅人、駕篭かき 人足をえがいている。遠くに見えるのは田中城で、家康がここで食べたテンプラに当たって、それがもとで 亡くなったといわれている。
現在は城は堀を残すのみで、旧東海道から望むべくもない。 ただ、二の堀にかかる木橋は残っている。本丸跡は小,中学校が建っている。なお、城の南東隅にあたる所に 下屋敷が,田中城ゆかりの建物を移築してあり、往時の面影を偲ぶことができる。


大慶寺の松(久遠の松)

写真・文  冬冶(掛川市)様
2001/1/24撮影

      現在の宿場町通り

写真・文  冬冶(掛川市)様
2001/1/24撮影


藤枝宿・正定寺

写真・文  冬冶(掛川市)様
2001/1/24撮影
      藤枝宿・蓮生寺

写真・文  冬冶(掛川市)様
2001/1/24撮影


田中城下屋敷

写真・文  冬冶(掛川市)様
2001/1/24撮影


      田中城本丸跡(奥の建物のところ
と二ノ堀にかけられた木橋)
写真・文  冬冶(掛川市)様
2001/1/24撮影




藤枝宿・瀬戸川橋

写真・文  冬冶(掛川市)様
2001/1/24撮影

東梅道の宿場町、城下町でもある。東西の交通の 要衝として繁栄し、駿府城の西の守りとして家康もたびたび 田中城を訪れており、宿場からの道はお成街道と呼ばれた。 宿場町は東の葉梨川を渡った東木戸口から、西の瀬戸川の 西木戸口の間、約2km、問屋場、本陣(ともに上,下)、 数多くの旅篭があった。

現在は当時の建物は全く残って おらず、近代的な商店街にかわっている。しかし、当時の 寺院は、由緒あるものが多く残っている。なかでも熊谷直実 ゆかりの古刹、蓮生寺、日蓮上人が自ら植えた松の木(久遠の 松)が現在高さ26mに育っている大慶寺、田中城主が1730年 に寄進したというクロマツのある正定寺等が有名で、町並みの 中にあり、容易に訪れることができる。

広重の描く上伝馬町の問屋場は、今交番が、また近くにあった 二軒の本陣は個人商店に変わっており、当時の建物を偲ぶことは できない。 田中城は四重の堀のみがのこり、ニノ堀にかけられた木橋が 当時の面影を残し、本丸跡は西益津小、中学校がたっている。

田中城下屋敷は城の南東隅にあり、藩主の庭園があつた。六間川の 水を引き入れ、築山、泉水、茶屋等が設けられていた。現在は、 庭園を復元し、城ゆかりの建物を移築して、近くに田中城下屋敷 として保存され、かっての面影を偲ぶことができる。