目次 三島 沼津 吉原 蒲原 由比 興津 江尻 府中 鞠子 岡部 藤枝 島田
17.由井宿 薩垂嶺
次の
宿場
東海道五十三次
17.
由比宿 薩垂嶺
歌川広重
天保3〜4年(1832〜33)

由比宿の現在の風景

写真 二宮銀次郎様(小田原市)
撮影    1999年8月 

由比のあたりは、山が海岸にせまり、街道は、海岸づたいに続くが、図の菩薩峠は、険しい坂道である。峠からの海と富士の眺めは、東海道中最も美しい風景の一つである。

目次
富士山の良く見える景色の良いところです。桜海老の取れる海で有名です。道路海側から東名高速下り、上り、国道1号線で、地形的に山が海まで迫っているのがよく分かる。
 
由比宿をパノラマ写真で見る




由比宿の見どころ



さった峠の標識

写真・文 二宮銀次郎様(小田原市)
撮影日時  1999年8月 


由比の本陣の近くには正雪紺屋があり、由比正雪はここの生まれと言われ正雪紺屋という現在の名が残っています。 由比は土地が狭く、海岸に山が迫り(太平洋側の親知らず子知らず)元禄の大津波と昭和の大きな山崩れがありました。 当時、国道1号線ががけ崩れになり通行止めになった為、海岸沿いに国道1号線を移したエピソードがあります。 海側に、東名高速が現在通っております。



由比宿の現在の風景

写真・文 二宮銀次郎様(小田原市)
撮影日時  1998年秋  









さった峠からの富士山

写真・文  ねこ虎様(北びわこ)
撮影   2001/1/19

 由比宿から今宿・東倉沢を経て、西倉沢のはずれに一里塚跡があり、さった 峠登り口になる。車一台ほどの坂道を上ると、富士山を背景に夏蜜柑がた わわに実っている。眼下には国道一号線・JR東海道在来線・新幹線が並 列している。
文化15年陰暦10月16日(現11月末頃) に江戸の勤めを辞し帰途、この地での状況を先祖が記している。

『倉沢てふ立場を通る日は小春の空、長閑にして心静かに茶屋の亭に腰かけて、一ぜん飯をくらう。鼻の先富士の白妙三保の松原,手に取るやうに見わたりて絶景なり』

 この亭は官軍に追われた山岡鉄舟をかくまった前記一里塚の前にある『望嶽亭ふじや』(現存松永宝蔵氏宅)である。 また同氏はユーモラスな弥次喜多キャラクターの生みの親で、由比宿の”おもしろ宿場館”に展示されている。由比宿には東海道広重美術館もありますので、足を運ばれる価値あります。
                (文・ねこ虎(北びわこ)様
    
.


狂歌で下る東海道五十三次


    皆人の由井神原や富士川の栗の粉餅ハ岩渕の町

 間の宿倉沢(静岡県庵原郡由比町倉沢)の茶屋(望嶽亭)で栄螺の壷焼きを食べました。西郷隆盛に会いに来た山岡鉄舟が、官軍に追われてこの茶屋に逃げ込み、漁師に変装して更に清水の次郎長のところへ逃れています。幕末「江戸無血開城」のドラマの幕開きです。望嶽亭には鉄舟愛用のフランス製十連発のピストルが残されています。この茶屋から眺める富士山のすばらしさは言葉を失うほどです。
 由比宿(由比町由比)は小さな宿場です。幕府転覆を謀った慶安事件(1651)の首謀者由比正雪は、この宿の紺屋治右衛門の子だそうです(異説あり)。その生家といわれる正雪紺屋があります。「あさってときめて亡びる紺屋の子」江戸の川柳子は口が悪いものです。名物は栄螺壷焼・白絹・食塩など。狂歌の「皆人の由井神原や」は「皆人の結い髪(原)や」の掛詞でしょう。(現在の由比町は日本一の桜えびの町として有名です)
 由比から約一里で神原宿(庵原郡蒲原町)です。この地を描いた広重の「夜の雪」は五十三次シリーズの中の傑作です。ここにも義経と浄瑠璃姫の伝説があります。義経を慕って奥州への旅に出た浄瑠璃姫がここで亡くなり、里人は姫を哀れんで六本の松を植えました。吹上の六本松の由来です。名物は藍・鮫・魚油・食塩など。
 宿を出てしばらく行くと富士川です。江戸初期の商人角倉了以が甲州鰍沢まで十八里の舟路を開拓しました。その舟運の発着場岩渕の町(庵原郡富士川町岩渕)はまた、東海道の渡し場でもあります。ここの名物は甲州の水晶、栗の粉餅など。栗の粉をまぶした餅です。(近ごろ富士川町の菓子屋が、途絶えていた栗の粉餅を復活させています)流れの速い富士川を箱舟で渡りました。次は吉原宿です。ではまた。

寄稿 八代市 ちくたく凡様