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33.白須賀宿 潮見版図
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宿場
東海道五十三次
33.
白須賀宿 潮見版図
歌川広重
天保3〜4年(1832〜33)

 白須賀宿の現在の風景

写真・文  ねこ虎様(北びわこ)
撮影    2001/1/19

白須賀宿は高師山から汐見坂に続く丘陵 地帯に在り、汐見坂は曲折長大な坂で坂上は 下りの旅人が初めて富士山を遠望する所と して名高く、駿河に近付いた事を実感する。 又眼下には東西七十五里の遠州灘が広がる。 図は江戸に向かう大名行列を描き浜辺には 漁師の網干しが点々と見える。 
      文・おーさん様 (三郷市)

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天保14年(1843)総家数613と記載されている。名物柏餅があった が、これは豊臣秀吉が小田原に出陣の際、立ち寄って食したという茶店蘇 鉄飴の「勝和餅」を発祥とすると伝わるものだが、現存しない。





狂歌で下る東海道五十三次


   白洲賀の塩見坂より詠むれバ七十五里の遠江灘

 三河を過ぎて遠州に入ります。二川宿から約一里半、白洲賀宿(白須賀、静岡県湖西市)に着きました。白須賀とは、白い砂地の上に開けた集落という意味だそうです。この宿場には桝形(ますがた。曲尺手、かねんて)があり、先のほうの見通しがきかないように、わざと道を曲げてあります。軍事上の目的と、二つの大名行列が直接出会わない工夫だそうです。行列が出会うと格下の大名が駕籠から降りて挨拶せねばならず、その煩わしさを避けるため、寺などに一時避難しました。松井章之は細川家の家老ではありましたが、知行三万石、徳川幕府からも直接知行(百五十石ほど)を与えられていて、小大名並みの人数で江戸へ下りました。彼の『参府日記』には、道中しばしば大名行列を避けて、寺などに小休みする様子がか書かれています。名物は柏餅・蕎麦切など。
 白須賀宿を出るとすぐに塩(潮)見坂です。ここからの海の眺めはまさに絶景。伊良湖岬から御前崎まで七十五里の遠州灘が広がります。
 「汐見坂にさしかかるに、是なん北は山つづきにして、南に蒼海漫々と見へ、絶景まことにいふばかりなし」と『東海道中膝栗毛』にあります。
 また『参府日記』は「塩見坂を登れハ遠江灘右の方に見る、はた又塩見の観音、海辺の岩山の上に立像壱丈五尺の唐金仏有、遠方より見る」と記しています。
 この潮見観音は船人の敬崇をあつめ、遠州灘をゆく船人が帆を下げて、観音様の名を念じて通り過ぎたことから、「帆下げ観音」とも呼ばれていました。(潮見観音の立像は湖西市役所のホームページで見られます)狂歌の「詠むれバ」は「ながむれば」、「遠江灘」は「とおとうみなだ」と読むのでしょう。
 潮見坂上(潮見坂公園跡)からの景色を眺望し、しばらくここで休んでいきます。ではまた。

寄稿 八代市 ちくたく凡様