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32.荒井宿 渡舟之図
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東海道五十三次
32.
荒井宿 渡舟之図
歌川広重
天保3〜4年(1832〜33)

新居渡船場の風景

写真・文  ねこ虎様(北びわこ)
撮影    2001/1/19

新居の関所を出て江戸に下る大名舟と京に上る乗合舟。大名舟は幔幕を張り毛鎗吹流等を立てている.乗合は一艘いくらで客数で割るので有るが安永五年頃で359文であったと言う。
右の砂浜には箱根と並び厳しいと言われた周囲を柵で囲った関所が見える乗合舟の乗客に欠伸をしている者も居るが皆下船の準備で忙しそうである。
      文・おーさん様 (三郷市)

目次
舞阪との間の浜名湖海上一里は「今切れの渡し」と呼ばれ、渡船が唯一の 交通手段であった。




狂歌で下る東海道五十三次


     荒井宿壱里わたりて舞坂や砂地三里ハ馬よるへし

 白須賀宿から一里半余り行くと、浜名湖のほとり荒井宿(静岡県浜名郡新居町)に着きます。「新居」ですが、江戸時代の記録などは「荒井」と書くことが多かったようです。ここはある意味では大きな難所でした。というのは、東海道で最も厳しい新居関所(今切[いまぎれ]関所)があったからです。「入鉄炮に出女」、特に女性は厳しく調べられました。この荒井は参勤交代の大名にとっても、手続きにひまどり難所でした。そこで大名は「荒井渡し奉行」をわざわざ任命し、行列の数日前に先発させ、荒井の渡し(今切の渡し)や関所通行を差配させました。
 熊本藩細川家の江戸屋敷に預けられた、大石内蔵助をはじめとする十七人の赤穂浪士を心から尊敬し、親身になって世話をし、忠臣蔵(赤穂事件)研究の重要史料の一つになっている「堀内伝右衛門覚書」を書き残した筆者も、義士切腹直後(元禄十六年)の細川綱利の帰国に荒井渡し奉行を仰せ付かり、傷心を抱きながら勤めています。(この関所跡は当時の姿のまま現在も残っています)
 名物は鰻蒲焼・魚料理等。また諏訪神社の祭礼で行われる、口径三寸ほどの花火の筒を抱いて舞う「手筒花火」も有名です。
 関所も無事に通り、舞坂まで一里、今切の渡し船に乗りました。船の中で国学者らしいひげの老人が、次のような話をしてくれました。ここ浜名湖はもとは淡水湖で、琵琶湖を都に近いことから、近つ淡海(ちかつおうみ、近江)といったのに対し、遠つ淡海(とおつおうみ、遠江)といったそうです。ところが室町時代、大地震で切れ目ができ、海とつながってしまい、切れた部分を今切口と呼んだということです。
 舞坂(浜名郡舞阪町)は小さな宿場で、浜名湖の眺めが美しい所です。名物はやはり鰻蒲焼・魚料理。うなぎのことを、ここの茶屋女は「おなぎ」と言います。その地方のお国訛りを聞くのも、旅の楽しみのひとつです。
 狂歌の「馬よるへし」は「馬によるべし」の書き違いでしょうか。次の浜名宿まで約三里、馬に乗って行くという意味でしょうか。よく納得のいかないまま、ではまた。

寄稿 八代市 ちくたく凡様