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25.金谷宿 大井川遠岸
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宿場
東海道五十三次
25.
金谷宿 大井川遠岸
歌川広重
天保3〜4年(1832〜33)

金谷宿の現在の風景

写真・文 冬冶様(掛川市)
撮影    2001/1/18

この図は島田側(駿岸)からみた金谷宿で、旅人の一行は、大井川の 中洲を渡って対岸の金谷宿に向かってゆく。向こうには金谷坂から牧の原台地 に連なる家並みが遠望される。

目次
浮世絵では、島田側の川越場からやや上流に向かって渡ってゆく行列が、 そして遠くに金谷坂に連なる人家が描かれています。それとほぼ同じ角度 でとりました。速くに見える山並みはほぼ同じ格好ですが、浮世絵の巨大 な黒い山は広重の創造のようです。




金谷宿の見どころ




金谷坂の石畳(入口)

写真 冬冶(掛川市)様
2001/1/18撮影 

      金谷坂から金谷宿を望む

写真 冬冶(掛川市)様
2001/1/18撮影
 
 金谷宿では、隷書版で、箱根と並び険阻な坂道と知られた金谷坂が描かれ ています。こんにちの石畳は町民が一人1個の石を持ちより奉仕で再現さ れたものです この坂道は石畳のためか、登るのに30分ちかくかかりまし た。靴でなくわらじだと、もう少し早いかもしれません。樹木が生残り、 昼でも暗く、当時はさぞ難所だったろうと想像されました。この坂道を登 りきると、牧の原台地に達し、菊川宿を経て小夜の中山につづきます。


金谷宿 川越しの史跡 

写真 冬冶(掛川市)様
2001/9/17撮影
 
 対岸の島田市には国指定の川越し史跡が有名ですが、金谷町では これまで川越しの施設が確認されていなかった。ところが、大井川の 川越しの歴史を伝える、江戸時代の家屋が金谷町河原(地名)に 現存していることがこのほど確認された。
 確認された家屋は大井川わきにある旧加藤家で、木造平屋一部 二階建て、材料や建築様式は江戸時代末期のもので、間取りは 島田市に残る川越し番屋と同じであることがわかった。
 また同家には川越しに使った蓮台や1764年に朝鮮通信使が 川越しした際の記録なども残っており、川越し人足をまとめた 川庄屋だった可能性もあるという。 金谷町では保存、活用を 考えている由。



金谷宿 本陣跡

写真 冬冶(掛川市)様
2001/9/17撮影 

 大井川をわたって旧東海道は金谷町の中心商店街を 通り、JR金谷駅の手前でその裏にまわり金谷坂の 石畳に達します。
 金谷宿にも本陣3、脇本陣1、旅篭屋51を数え、嶋田宿 と同じく川越宿場として栄えました。本陣跡には標識が 立てられているようですが、当時の建物はなにも残って おりません
今は書店になっています。
                 (文: 冬冶(掛川市)様





狂歌で下る東海道五十三次


    金谷より坂車一の大井川流わたりて瀬戸のそめ飯

 日坂から一里二十四丁、金谷坂の石畳を行くと金谷宿(静岡県榛原郡金谷町)に入ります。大井川の遠江側の渡渉地として賑わいを見せています。芭蕉が「道のべの槿は馬に食はれけり」と詠んだのもこの地です。金谷宿は少し高い所にあり、大井川が目の下に見えます。袋井あたりからちらっと姿を現わしはじめた富士山が、ここからは少し左側に見えています。名物は茶・菜飯田楽・子育飴など。
 宿はずれの宅円庵には日本左衛門の首塚があります。歌舞伎「白浪五人男」(『青砥稿花紅彩画』)の首領日本駄右衛門のモデルになった大盗賊です。生まれは尾張ですが、父親が金谷宿の役人をしていたそうです。「盗みはすれども非道はせず、人に情けを掛川から金谷をかけて宿々で」(歌舞伎の駄右衛門のツラネ)盗みを働き、民衆は義賊と評判しました。幕府から全国に指名手配され、人相書が回されています。熊本藩熊本町方文書『惣月行事記録抜書』にその手配の様子が書かれています。珍しいと思いますので書き抜いてみます。
「(延享三年、1746)十二月
 公義御尋者十右衛門事浜嶋庄兵衛、せい五尺八九寸程、歳二十九歳、脇差弐尺五寸、其外委細記有り、右の者悪党仲間にて異名日本左衛門と申候、其身ハ曾て左様名乗り不申候
  翌三月右の者於京都召捕候段御達有之(追記)」
 正しくは、延享四年一月に京都で自首、直ちに江戸送り、三月に江戸で斬首。その首は見付宿で獄門になったそうです。その首を情人のお万が盗み出して、首塚を作ったといいます。
 遠江から大井川を肩車で渡るとそこは駿河です。渡し賃は、水嵩も低く四十八文。流永さん、幸いなことに「ゆすり」には会いませんでしたよ。島田宿の先、藤枝宿の近くの青島という所に名物瀬戸の染飯(そめいい)があります。クチナシで染めた強飯をつぶして、小判型にしたものです。旅人に人気がありました。
 狂歌の「坂車一の」が分かりません。「坂東一の」の書き誤りかもしれませんが、「坂東」は相模国から先で、ここはまだ坂東ではありません。ふたたび納得がいかないまま、ではまた。

寄稿 八代市 ちくたく凡様