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39.岡崎宿 矢作之図
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宿場
東海道五十三次
39.
岡崎宿 矢作之図
歌川広重
天保3〜4年(1832〜33)

現在の岡崎宿の風景

 写真・文  流永様(名古屋市)
撮影     2000/12/9

矢作橋は長さ208間で、当時日本一の長大橋。 シーボルトの紀行に、精細な写生図がある。 日吉丸と小六の出会いの橋で、橋の向こうは岡崎城。

文  流永様(名古屋市)

目次
<矢作橋>
日吉丸と蜂須賀小六が出会ったとされる矢作川の橋。 ここから豊臣秀吉が歴史に登場する。




岡崎宿の見どころ

岡崎城

写真・文  流永様(名古屋市)
撮影日時  2000/12/9 

徳川家康が生誕した古巣。 「人の一生は、重荷を負いて遠き道をゆくがごとし、  急ぐべからず……」 家康の遺訓である。



岡崎城(岡崎市)

写真・文  コバ様(豊田市)提供

岡崎の中心街から程近い乙川(菅生川)沿いにあります。
徳川家康(竹千代)生誕の岡崎城 手前が龍城神社で城内、
川沿いに咲く桜がきれい。




法蔵寺(岡崎市)

写真・文  コバ様(豊田市)提供

名鉄本宿駅から歩いて10分ぐらい、旧東海道沿いにあります。徳川家康(竹千代)の幼時期 読み書き手習いに通った法蔵寺、創建は701年に僧行基と伝えられています 
*行基(大僧正)奈良大仏建立に係った  
山門を入って左手に六角堂がありその裏手に松平家の墓所がありその直ぐ近くに近藤勇の首塚があります。ひっそり葬られていましたが最近胸像が建てられました。
近藤勇は東京板橋の刑場で斬首、首は京都三条大橋西に晒されたが同士が三晩目に持出し近藤勇ゆかり京都誓願寺寺に持ち込んだ。
この塚は近藤勇と縁のあった京都誓願寺の住職がこの法蔵寺の住職になったため、土方歳三ら新撰組の仲間たちとこの寺に埋めたそうです。




義経と浄瑠璃姫の遺品 誓願寺十王堂

写真・文  コバ様(豊田市)提供

岡崎市矢作町旧東海道沿い

長者兼高は十王堂を再建、浄瑠璃姫の木像を作り、義経が浄瑠璃姫に贈った名笛[薄墨]と姫の鏡を安置した。
浄瑠璃物語や人形浄瑠璃などはこの矢作の浄瑠璃姫の生涯がもとになり創作が行なわれ年代と共に史実がぼやけて伝説化されてきた。
この十王堂の裏手に浄瑠璃姫、兼高長者のお墓があります。
三河矢作の浄瑠璃姫伝説 浄瑠璃姫ゆかりの地探訪記
恒例の岡崎家康行列に今年(H16/4/4)から「浄瑠璃姫と義経」が加わり華やかさを増した。





狂歌で下る東海道五十三次


    大浜の茶屋ハめん類よき所うどんそば切素麺もあり
    岡崎ハ一里八丁宿ながし矢橋の橋は二百八けん


 池鯉鮒宿を出発、途中大浜の茶屋(愛知県安城市浜屋町)でひと休み。街道の人馬休息地であり、旅人が大勢休憩しています。ここは、大浜湊(碧南市)から山間部足助(あすけ。東加茂郡足助町)に通ずる、「塩の道」と東海道の交差するところです。水田がなく、畑も少なく、農民は作間茶屋(農閑期に営む茶屋)で生活を支えていました。蕎麦切・うどんなどめん類が名物です。
 大浜を過ぎて一里余り、浄瑠璃姫の墓のある誓願寺のそばを通りました。姫は矢作(やはぎ)の長者の娘で、奥州に下る源義経と一夜の契りを結び、帰らぬ義経を待ち焦がれ、乙川に身を投げたと伝えます。
 やがて東海道第一の大橋、矢作(矧)橋にさしかかります。この橋の長さは二百八間(三百七十四メートル)もあります。日吉丸(豊臣秀吉)がこの橋の上で蜂須賀小六に出会ったという伝説もあります。狂歌の「矢橋の橋は」は「矢矧の橋は」の書き違いでしょうか。(現在の矢作橋は百メートルほど上流です。長さも二百七十メートルとやや短くなりました)
 岡崎城を右手に見ながら行くと、やがて岡崎宿(岡崎市)に着きます。岡崎城の二十七曲がりといい、曲がりくねった宿場です。狂歌の「ながし」は橋と宿場とを掛けた表現でしょう。
 ここは、徳川家康誕生の地。そして、織田信長の疑いを受け、岡崎城で家康が正室の築山殿を家臣に命じて殺害させ、子の信康を切腹させた悲劇の地です。
 岡崎の名物は灯篭などの石細工、三河花火。また、八丁味噌の発祥の地でもあります。良質の矢作大豆と硬質の水を使って作った味噌です。狂歌の「八丁」はこの味噌を意識した表現ではないでしょうか。(江戸時代から続く味噌屋「角久」が残っています)この味噌で田楽を作れば、さぞ美味しいでしょう。ああ、またお腹が空いてきました。で、ではまた。

寄稿 八代市 ちくたく凡様