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35.吉田宿 豊川橋
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宿場
東海道五十三次
35.
吉田宿 豊川橋
歌川広重
天保3〜4年(1832〜33)

現在の吉田宿の風景

写真・文 夢入道様(四日市市)
撮影     2000/12/12

広重の吉田宿画は吉田城の隅櫓を通して見た吉田大橋を俯瞰画のように表現しています。
現在の豊橋市役所の屋上から見れば こんな絵も想像できます。
「吉田通れば二階から招く、しかも鹿の子の振袖で」と謳われた頃を彷彿させます。

  文・ 夢入道様(四日市市)

目次
この写真は隅櫓の裏手から豊川に架かる
豊橋〔現在の国道1号線大橋〕を望んだもの です。広重の頃の大橋はこれよりも下流に 位置していた。名前の看板は案内看板から 切り出して貼り付けたものです。




吉田宿の見どころ


本陣跡

写真・文   ねこ虎様(北びわこ)
撮影     2001/1/31

吉田城跡

写真・文   ねこ虎様(北びわこ)
撮影     2001/1/31
 
中心部の札木町がもっとも繁盛をきわめた。「吉田通れば二階から招く、しか も 鹿の子の振袖で」と唄われたように、飯盛旅篭屋が沢山飯盛女を置いていたの で 有名となった。吉田を豊橋に改称したのは明治二年、空襲で焼失して宿場の面 影は 殆ど残っていない。
 東海道分間絵図に 「よつや ふし山 京より下り此所より初てふし山ミゆ る。山山の  間にふじ山の上少ミゆる所のものにて、志らさる者多く、よくよくの青天なら でハ見えず」 とある。
はじめ今橋城と称し、永正二年(1505)牧野古白によって構築された。
 戦国武将の攻防を経て、天正十八年(1590)に池田照政が入封し、城地に 相応しい 拡張と城下町の整備が行われた。
しかし照政が姫路に移封後の大名が少禄の 為、 大拡張された城地も未完成のまま明治に至った。現在みられる遺構は照政時代 の 旧態を残している。





狂歌で下る東海道五十三次


    吉田より両川越て松かげの猿が番場に柏餅あり

 御油から二里二十二丁、豊川橋(現在の豊橋、当時は七十メートルほど下流に架かっていました)を渡って吉田宿(豊橋市)に入りました。智恵伊豆といわれた松平信綱の子孫の、松平七万石の城下町です。吉田城の美しい角櫓が目に入ります。(現在城跡は豊橋公園になっており、豊川の流れや遠い山並みなど、眺めがすばらしい所です)名物は火口(火打石の火を移し取るもの)・煙草・菜飯田楽など。
 「吉田通れば二階から招く、しかも鹿の子の振袖が」という唄があるように、遊女が多い宿場です。また「吉田宿皆仰向いて通るなり」という川柳もあります。わたしはずっと下を向いて通りました。(いうまでもなく、現在はそのような場所はありません。念のため)
 流永さんの御指摘で思い出しました。当時どこの宿場にもその種類の飯盛女がいました。特に赤坂・御油・吉田の各宿は紅灯の家が多い所でした。またこんな唄もあります。「御油や赤坂吉田がなけりゃ親の勘当受けやせぬ」(もちろんこれも江戸時代のことです)
 吉田宿から一里二十丁、両川(二川)宿(豊橋市二川町)に着きます。二川本陣の馬場家があります。(現在「豊橋市二川本陣資料館」になっており、江戸時代の本陣の様子がうかがえ、見逃せない所です)
 狂歌の「猿が番場」は「猿ケ馬場」のことでしょう。広重の二川の絵はここを写したもので、左側の茶屋に「名物かしハ餅」の看板が見えます。わたしもこの絵の中に入り込んで、女旅芸人といっしょに柏餅を食べていくことにします。ではまた。

寄稿 八代市 ちくたく凡様