中心部の札木町がもっとも繁盛をきわめた。「吉田通れば二階から招く、しか も 鹿の子の振袖で」と唄われたように、飯盛旅篭屋が沢山飯盛女を置いていたの
で 有名となった。吉田を豊橋に改称したのは明治二年、空襲で焼失して宿場の面 影は 殆ど残っていない。
東海道分間絵図に 「よつや ふし山 京より下り此所より初てふし山ミゆ る。山山の 間にふじ山の上少ミゆる所のものにて、志らさる者多く、よくよくの青天なら
でハ見えず」 とある。
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はじめ今橋城と称し、永正二年(1505)牧野古白によって構築された。
戦国武将の攻防を経て、天正十八年(1590)に池田照政が入封し、城地に 相応しい 拡張と城下町の整備が行われた。
しかし照政が姫路に移封後の大名が少禄の 為、 大拡張された城地も未完成のまま明治に至った。現在みられる遺構は照政時代 の 旧態を残している。
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