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鳴海宿
宮之宿
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宿場
東海道五十三次
42
.宮
(熱田神事)
歌川広重
天保3〜4年(1832〜33)
現在の宮(熱田神宮)の風景
写真・文 流永様(名古屋市)
撮影 2000/11/29
宮は、熱田神宮の門前町である。当時は、東海道中最大の宿駅で、熱田神宮や伊勢神宮参拝の旅人達も集まったので、大変賑わった。この図は、熱田神宮に伝わる季節の行事・馬追祭で、馬の駆競の結果によって、その年の豊作を占った祭りである。
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織田信長が桶狭間の戦いに挑む際に参拝した。 そして、今川義元の首を取り、歴史が大きく動き出した。 良きにつけ悪しきにつけ、日本人の<神だのみ>のルーツである」
宮之宿
の見どころ
熱田神宮
写真・文 流永様(名古屋市)
撮影日時 2001/2/2
宮の渡し公園
写真・文 ねこ虎様(
北びわこ
)
撮影日時 2001/2/11
宮の渡し公園
写真・文 ねこ虎様(
北びわこ
)
撮影日時 2001/2/11
桑名宿への海上七里の渡船場跡として整備され、常夜燈や時の鐘楼が復元されている。人口と旅篭数が東海道では大津・府中に次いで三番目に多かった。由緒ある熱田神宮の門前町として町が出来たと思われる。
丹羽家住宅
写真・文 ねこ虎様(
北びわこ
)
撮影日時 2001/2/11
丹羽家は幕末の頃、脇本陣として格の旅篭屋、伊勢久と称していたが、古くは西国屋ともいわれていた。
狂歌で下る東海道五十三次
桑名海七里わたりて宮につく美濃路も佐屋も左りへぞ行
熱田宮畔笠寺観世音鳴海におほき刃物鍛冶あり
七里の渡しの船は、大小さまざまあります。四、五十人乗りの乗合船から、五人乗りぐらいの船まで。順調にいって四時間、風や潮の加減ではそれ以上かかるそうです。わたしが乗ったのは三十石船です。
海の景色を眺めながら、談林俳諧の西山宗因を思い出しました。宗因は八代に関係の深い人物です。かつて加藤清正の子忠広が肥後国(熊本県)を領していたころ、八代城代加藤正方(風庵)に仕えていたのが宗因です。正方の影響を受け、宗因は熊本で、京の里村家で連歌を学びました。加藤家改易後の寛永十七年(1640)、宗因は、旧主正方・連歌師里村玄的と共に、京より江戸に向かう途中、桑名からこの渡しに乗って、船上で百韻連歌を張行しました。宗因の直筆が八代市立博物館と天理図書館に残っています。その第三句までを紹介しますと、
初何 みるめおふる所がらかも春の海 玄的
雁もわかれぬ浦の明ぼの 宗因
月影も霞める浪に船うけて 正方
幸い海は凪で宮宿(愛知県名古屋市熱田区)に無事着船。(現在渡船場は公園になっていて、常夜燈や鐘楼が復元されています)この宿場は旅籠の数二百五十軒、東海道随一だそうです。ここから、佐屋街道が始まります。陸路桑名に向かう脇街道です。船の苦手な人は、遠回りになりますがこの街道を通りました。
さっそく熱田神宮に参拝しました。広い神域に古木蒼然と茂り、荘厳な宮居です。ヤマトタケルの命(倭建命)が、后ミヤズ媛(三河国造の娘)のもとに残した草薙の神剣が祭られています。
もちろん、名物のきしめんと鯉料理を味わい、鳴海宿に歩みを進めます。途中笠寺(名古屋市南区笠寺町)に立ち寄り、観世音を拝しました。正式には、天林山覆笠寺といい、真言宗のお寺です。本尊の十一面観音が笠をかぶっておられます。昔、この寺が荒れ果てていたころ、この地の長者に仕える娘が、雨に濡れた観音様に自分がかぶっていた笠をかぶらせました。その娘は後に都の貴族の妻になり、玉照姫と呼ばれたといいます。
狂歌の中の「畔」の字の読みと意味が分かりません。「たばた」とでも読むのでしょうか。近くに「田ばた橋」があります。どうでしょう。
きょうは疲れましたので、この寺でしばらく休んでいきます。鳴海宿のことは次に回します。ではまた。
寄稿 八代市 ちくたく凡様