四日市の誕生と生いたち


鎌倉時代の歌人、鴨長明の伊勢記に「行きわびぬ いざ浜村に立ちよらん あさけ過ぐれば日永なりけり」と歌わり、この浜村と呼ばれている小さな集落が四日市のはじまりで、農業や漁業が営なまれていました。

 文明2年(1470年)、俵藤太秀郷の子孫、田原美作守忠秀が、現在の鵜の森公園に浜田城を築いたころ、その北寄りに十字の大道がつくられて市場がはじまり、市場村と呼ばれるようになりました。そして16世紀の半ばには、毎月41424の月3回、定期市が開かれ四日市と呼ばれました。これが四日市の名のおこりだと云われています。

 四日市の領主、田原家は
3代で滅び、中世紀は織田領から豊臣領、さらに慶長5年(1600年)には徳川家康の領するところ(天領)となり、その初代宮には水谷九左衛門光勝が任ぜられ、今の中部西小学校の地に陣屋を築いて、当地を支配させました。

 明治維新後は大津県、度会県、安濃津県、旧三重県とめまぐるしく変わり、明治
9年に度会県と合併して現在に至っていますが、旧三重県時代には四日市の陣屋跡に県庁が置かれたこともあります。

 明治
23年に関西鉄道(いまのJR関西本線)四日市〜草津間が開通し、同28年名古屋に乗り入れて東海道本線と連絡してからは、四日市港とともに東西を結ぶ海陸交通の要所として、綿紡績、製糸、漁網などの繊維工業、菜種を原料とした植物油工業、陶磁器工業などが栄え、商いの町から工業の町へと発展してきました。中でも元禄時代から伊勢水として知られていた四日市地方の菜種の生産は、明治初年には、四日市の油問屋を中心として、全国屈指の植物油工業地帯を形成し、菜種の栽培も盛んでした。また元文年代、沼波弄山が創始した万古焼が、明治初年末永に開窯した大地主山中忠左衛門らの成功によって、四日市の特産工業として栄えました。

 ところで、本市は中部経済圏を担う伊勢湾の門戸として、わが国有数の港湾都市ですが、四日市の港はすでに幕末から明治初年にかけて、船舶の出入り、旅客の行きかい、物資の集散が盛んな港で、明治
17年、先覚者稲葉三右衛門の献身的な努力によって港が修築されてからはさらに発展し、四日市の商工業は一だんと活発になったのです。そして明治3081日、待望の市制が施行され、平成98月でちょうど100周年を迎えたのです。

 本サイトは、紀元前から現在にいたる四日市でのできごとを、日本および世界の動きと対比しながら、そのあゆみを年表にまとめたものです。








参照文献  市制80周年記念誌 年表 四日市のあゆみ(各戸配布)
          〃    目で見る郷土史 四日市のあゆみ
           市制100周年記念誌 四日市市史 第20巻 年表・目録
      四日市商工会議所創立100周年記念特集号 商工春秋別冊